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予告(のようなもの)


拙作「そして僕はレシピを手にする」へのniceとコメントありがとうございました。
あたたかいコメントにとても励まされました。心から感謝いたします。


* **


実はですね。また書いてしまいました。
その分量が…もじもじ…またブログ掲載にはヘヴイな…
短編小説くらいの長さです。書き上げると偶然にも前作とほぼ同じ分量でした。
ここまで書いてきて…はたしてこれは予告か、と思ったのです。
分量だけを報告するのが…予告と言えるのか?


映画館のホールが暗くなり本編上映前の予告が始まった。

『「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」「ダージリン急行」の
 奇才ウェス・アンダーソン監督最新作
 「グランド・ブダペスト・ホテル」2014年6月公開!
 上映時間:100分』

上映時間の情報だけで果たしてそれは予告か?


ボクは会社の近くにある食堂で日替わりランチのサバ味噌煮定食を食べ終えた。
明日の昼食もここに来ようかな…どうする?
顔なじみの女主人にボクは聞いた。

「おばちゃん。明日の日替わりランチは何?」

「総量で380g!」

この場合、分量は明らかに予告として機能していない。


しかし。内容を告げる予告が果たしてほんとうに良いのか?疑問も残る。

ボクの家に鶏がいるとしよう(実際に家にいるのはオスのサバトラ猫だが)。
彼は毎朝、1日の始まりを予告するように鳴く。
しかし、これからどのような1日になるのかは話さない。
もし彼が話すとしたら…どうだろう…。

「いいか、心を落ちつけるんだ。
 これから始まる君の1日はかなりハードだ。
 駅構内を歩いているとiPhoneにメールが届くことになる。
 覚悟したほうがいい、心が折れるだけじゃすまいかもしれない」

朝からこんな話は聞きたくない。

「さっ。起きろ。今日はいつもより20分早く会社に着くんだ。
 今年最大の幸福が君を待っている。おめでとう!
 相手は『驚かせてごめんなさい』と言うだろう。でも君は驚かない。
 だって今知ったから。そう君はノー・サプライズだ」

嬉しいかもしれないが心は踊らない。


今回も分量だけの予告(のようなもの)とさせて頂きます。
前作と殆ど同じで短編小説くらいの分量です。
お時間に余裕のあるときに読んで頂ければ幸いです。


また今回もタイトルが未決です。
「脳を揉む」時間を数日頂戴いたしたいと思います。





そして僕はレシピを手にする

なんにせよ奇妙な出来事に巡り逢うことはある。
森の蝉たちが鳴きやむように。木々をゆらす風が去るように。
それは不意にやってくる。


***


キリンが大きな瞳で僕をみていた。長い首を下げ僕の顔を正面からみていた。
3分ほどするとキリンは首をもとに戻して去っていった。
キリンは1度ふり返りニッと笑った。
横から笑顔の男が現れた。ダークなスーツを着た、額が後退した白髪の西洋人だった。
彼は満面の笑顔のままでこう言った。

『 Ready to suffer ?(キツいかも…大丈夫かな?)』

そんな夢だった。
それから僕は眠れなくなった。
正確には…1日に30分だけしか眠れなくなった。


* **


これは不眠症だ…。だって眠れないんだからきっとそうだ。
3日目にそう結論づけた。
5日目に総合病院の睡眠診療科を受診した。

検査結果に異常はなかった。
45才の男にしてはまだ充分に若い脳と肉体ですと担当医は言った。

「まあ君がロメインレタスだとしたらシーザーサラダに使うほど新鮮じゃないけど、
ハンバーガーには使うヘッドレタスくらいの新鮮さは保たれている」

睡眠診療科担当の50代前半の神経内科医は話を続けた。

「知ってるかい…シーザーサラダにヘッドレタスを使うレストランがあるんだ。
けしからん」

「それは初耳です…しかし僕が先生から聞きたいのはシーザーサラダのことじゃない」

「いいから聞きなさい。検査結果は異常ない、君は健康だ。ブラボーだ。
するとだ…不眠の原因は分からない。種も仕掛けもない不眠だ」

そう言って担当医は両手をヒラヒラと回した。

「原因不明の不眠がブラボーなもんか」

「いいかい。朝まで眠れなかったら精神は淀むかもしれない。
 だから君は精神をフレッシュに保つために朝摘みのロメインレタスでつくったシーザー
 サラダに思いを馳せて夜を過ごしなさい」

「・・・・・」

「かりかりのガーリック・クルトンに思いを馳せなさい…パルメザンチーズに、オリーブ
 オイルに、塩胡椒に、白ワインビネガーに、ウスターソースに、半熟玉子に…思いを馳
 せなさい…ほうら眠くなって…こない?」

「こない!」

処方された睡眠薬を飲んだが効果はなかった。


* **


幸いなことに30分だけの睡眠にも関わらず身体の調子に変化がなかった。
頭痛も倦怠感も疲労感も感じなかった。
困ったことは…30分の睡眠がなんの前触れもなく突然にやってくることだ。
僅か30分だけの突然やってきて突然去っていく睡眠は眠っていた記憶さへ残さなかった。
最初は会社のデスクでコンピュータの液晶画面に向かっている時、不意に睡眠が襲い睡眠
が去っていった。
液晶画面の時計が30分経過していたことに気づかなければ眠ったことにきづかなかった
筈だ。
数日すると周囲は慌てた。しばらくすると、突然動かなくなる男を周囲は持て余した。
その30分間の睡眠発作がいつ出現するか分からないからだ。
そしてそれが勤務中にやってきたときに周囲は慌て、持て余した。


困ったことがいくつもでてきた。
30分間の睡眠がいつ襲ってくるかが分からないのはやっかいなものだった。
車の運転は危険だった。エピソードを説明する必要もないだろう。
浴槽のお湯がもう少し多かったら溺れるところだった。以来シャワー浴だけにした。

会社のトイレは個室の洋式トイレに座ることにした。あまり人目を気にしない僕でも、
ペニスを出して眠りこける姿を同僚にみられるのは2度とごめんだ。
ある日の午後、デスクの内線電話にでると他の部署にいる同期の男からだった。

「おい。噂になってるぞ。オマエさ、ペニスを出すと失神する病気らしいな」

「明らかな誤解だ!しかし、内線電話で説明する気にはならない」

女友達とレストランで食事しているときだった。僕は突然前のめりにテーブルの上へ
うつ伏せに倒れ眠ってしまった。目覚めると彼女は興奮していた。

「びっくりした。私はあわてて君の背中をみたの。ほら映画でよくあるじゃない…
食事中の男が無言でテーブルに伏すと背中にナイフが刺さっているの。でも君の背中には
ナイフはなかった…」

別の女友達は僕が前のめりにテーブルの上の料理に倒れ眠ってしまうと帰ってしまった。
目覚めてから見たiPhoneメールで彼女は怒っていた。

「料理を台無しにしたことを怒っているんじゃないの。
 私の話を聞いてるときに眠るのが許せないの」

さらに別の女友達との食事の時だ。僕はもう前に倒れるのは避けたいと思った。僕は椅子
に深くかけ重心を後ろへ傾け、反り返って座った。彼女は僕に言った

「今日はやけにエラそうね…」

困ったことはマーチングバンドのように集団で押し寄せてきた。
困ったことリストは順列組み合わせで増えていった。
トランペットが錆びたファンファーレを鳴らした。


* **


それから僕は夕食を自宅で1人で食べるようになった。
たいていは夜8時から9時には夕食をすませ音楽を聴いて本読んだ。
よく聞いたのはコールドプレイのアルバム『パラシューツ』だ。理由はとくにない。
きっと個人的なひそやかな長い夜にはこの1stアルバムがフィットしていたんだと思う。
みずみずしい朝摘みの野菜の歯触りと香りを思わせるこの曲達が。
音楽を聴き、本を読むときにはバーボンソーダを飲んだ。
酒を飲めばもちろん酔う、しかし眠くはならない。これがやっかいだった。
例えば…ハードリカーの重い酔いが脳を支配しても眠れないから飲み続ける。すると酔い
はますます重くなった。普段は物事を深く考えず処理して、悩んだりしない僕だが(言う
までもなく不眠には悩んでいたが)、重く深い酔いは脳の森に分け入り鬱屈を引きずり出
してきた。
僕は鬱屈の処理にはむいていない人間だったし、助けてくれる人もいなかった。
ボクシングのリングへマネージャーが投げるタオルのように、30分の睡眠がとんできて
眠れないかと思ったが…マネージャーも奇妙な不眠も追い詰められた選手の気持ちなんか
分かっちゃいない。眠れないまま鬱屈と対峙するのはやっかいだった。
「ああ。誰かこの試合を終わりにしてくれないか…」

その点、バーボンソーダの酔いは浅く軽い。酔っても眠れない45才の男には相応しい酒
だった。バーボンソーダの酔いは森に分け入ることがあっても鬱屈には出会わない。
バーボンソーダの酔いは浅く軽い。鬱屈には出会わないが…森の美女や賢者にも出会えな
かった。
僕は子供の頃から本を読むのも眺めるのも好きで良かったと今回はつくづく思った。
もし僕が本好きでなかったら、長い夜に精神が適応できずにイレギュラー・バウンドを起
こしたかもしれない。
以前まで睡眠にあてがわれていた7時間の夜を僕は読書で消費した。毎日7時間をかけ
て本を読んでいると7時間はけっして短くない時間であることに気づいた。7時間は職種
によっては1日の労働時間にも相当する長さだ。つまり僕は…「年齢・経験不問、但し読
書好きであること」という条件の仕事に就いたように毎日本を読んでいた。
勤勉な読書就労者だ。
もしその時間帯に睡眠が訪れても6時間30分の夜は残った。睡眠は読書勤務の短い休憩
にすぎない。
問題だったのは、7時間の時を忘れるくらいの面白い本を次々にストックしなければなら
ないことだった。
面白すぎる本に興奮して眠れなくなってしまったら…という心配は必要なかった。

深夜に本を読んでいると一緒に暮らしているオス猫が夜行性の親密さで話しかけてきた。
15才のキジトラ猫はしなやかさには欠けるが優美さをたたえた存在で、知恵と機知を併
せ持ったかっこうの話し相手だった。彼は会話には必ずジョークを挿入せずにはいられ
ない性格だった。
月は太陽がくれた光を謙虚に反射し夜を淡く照らし、ひかえめな口調で語りかけてきた。
45億才の月は昂揚や哄笑には無縁だが、内省と沈思が丁寧に紡いだ真理の言葉で僕の
部屋を優しく照らした。月は会話に愛をそそがずにはいられない性格だった。
しかし太陽が昇ると猫は眠り、月は消えた。
それでも僕の意識だけは残った。

猫と月との会話はもちろん観念的なものだ、ここで断るまでもなく。
不眠症が始まって1週間。幻覚がドアを開けて入ってくる気配さへなかった。


* **


僕は毎日本屋へ行き3冊の本を買った。ときに本は読んでいる途中で飽きたり失望したり
することがある、残念ながら。そこで1冊ではなく3冊にした。先発・中継ぎ・抑えだ。
しかしこの選択がなかなか難しい。運悪く先発・中継ぎ・抑えの出来が悪くてゲームが台
無しになるときがあった。つまりは3冊が3冊とも退屈で失望する出来のときだ。そん
なときは帯のキャッチコピーを「嘘つき」とののしった。立ち読みで読むであろう書き出
しの分量だけ面白い小説に遭遇したときは「この悪徳商法め」と呪った。
不眠が始まり2週間が経過したとき僕は書店で「睡眠学」、「不眠症」の本をまとめて
10冊買った。ついでに「シーザーサラダ」の本も1冊買った。
あの医者が言ったことを思いだしたからだ。

「眠れない夜は…シーザーサラダに思いを馳せて過ごしなさい」

うん。100匹の羊たちに思いを馳せるよりは、シーザーサラダの本を読むほうが楽しそう
だ。気まぐれに「羊飼い入門」というタイトルの本も買った。

午後9時に1杯目のバーボンソーダをつくり、「睡眠学」の本を開いた。学術的な専門
書ではなく、研究者が一般読者向けに書いた本だったが理解するのは困難だった。
3日前には…クルト・ゲーデル「不完全性定理」の入門書を読んだがまったく理解出来な
かった。半島の突端に1人取り残された気分になった。しかもそれが「抑え」の本だった
ので途方にくれて夜を過ごした。
「睡眠」の本を読んでみるとショートスリーパーという言葉が出てきた。世の中にはショ
ートスリーパーと呼ばれる短い睡眠時間でも健康が損なわれない人がいるらしい。ショー
トスリーパーはレム睡眠が圧倒的に少ないと書いてある。ほう。脳が活動している睡眠が
少ないなら夢をみることも少ないってことだな。ナポレオンの睡眠時間が3時間ってのは
聞いたことがあったが、レオナルド・ダ・ヴィンチは90分だったらしい。それでも
ダ・ヴィンチは僕の3倍の睡眠時間だ。それに僕のように睡眠が突然前ぶれもなく襲って
くることはなかったはずだ。
「不可解なスーパーショートスリーパー」なのか…僕は。
そして僕は夢をみなくなった。レム睡眠は立ち去り、ノンレム睡眠が残った…僕の30分
間の睡眠。
結局僕が読んだ本からは、この症状の問題解決の糸口はみつからなかった。

睡眠学の本は机に置いたままにして、シーザーサラダの本を開いた。
ローマ帝国のジュリアス・シーザーがこのサラダを好きだったという俗説があるがそれは
嘘だということだ。シーザーはこのサラダを作った料理人の名前だった。
メキシコにある人口140万人の都市ティファナ。アメリカとの国境沿いに位置する都市
だ。ティファナへはサンディエゴから車で15分、ロスアンゼルスからは車で3時間だっ
た。
1924年、ティファナで営業していたレストラン「シーザーズ・プレイス」のオーナー、
イタリア系移民のシーザー・カルディーニ、彼がシーザーサラダを作った男だった。

『・・・・・どういうことだ?』

その本にはページ半分の大きさのシーザー・カルディーニの写真が載っていた。

『おい。いったいどうなってるんだ・・・?』

5杯目のバーボンソーダをつくり一口飲んだ。

『本当にこの男がシーザー・カルディーニなのか?
 彼がシーザーサラダを作った男なのか・・・?』

写真の中のシーザー・カルディーニは60代後半に見える男だった。ダークなスーツに
ドット柄のネクタイをしている男がフォークを左手に持ち木製のサラダボウルの前に立っ
ていた。
髪はサイドに白髪を残すだけで禿げあがっていた。黒く太い眉と大きな鼻の男は、目と頬
と口で笑顔をつくっていた。
忘れるもんか。

『 Ready to suffer ?(キツいぜ…覚悟はできてるか?)』

そう僕の夢の中で話しかけてきたあの男が写真の中で笑っていた。あのときと同じ笑顔で。
キリンが立ち去った後でふいに横から現れた男はシーザー・カルディーニだった。
キリンとシーザー・カルディーニが現れた夢をみてから僕の不眠症は始まった。

机の上に開いたままの睡眠学の本、左のページには表が載っていた。
それは動物の睡眠時間が記入された一覧表だった。
ヒト:6〜10時間
イヌ:10時間
ネコ:12〜13時間
ゾウ:3〜4時間
キリン:30分
僕は右ページの数行を読んで本を机に置いていた。つまり僕は表をみていなかった。


* **


僕は翌日病院へ行った。当然だ。シーザー・カルディーニが夢にでてきたあとに僕の不眠
症が始まった。僕が受診した睡眠診療科の神経内科医…たしか村木という50代の男だっ
た…村木は僕に言った「シーザーサラダに思いを馳せなさい」と。
いったいどういうことなんだ。
綜合病院のエントランスから中央ホールを横切り東棟1階の各科の外来診察室が並ぶ場所
へ歩いて行った。
しかしそこには睡眠診療科は…なかった。
僕はあわてて中央ホールに戻り総合受け付けの女性事務員に訊ねた。
彼女は小さい声だがきっぱりと言った。

「当院には神経内科はありますが、睡眠診療科という科はありません。
 パソコンで職員名簿を検索してみましたが村木という医師は…いませんね」

僕はポケットから診察カードを出して彼女に渡した。そのカードを彼女はカードリーダで
読み込んだ。パソコンの画面に表示された情報をみて彼女は小さく首をふった。
ひかえめな声で彼女は言った。

「先週の受診記録はありませんね。3年前の整形外科の受診記録ならありますが・・」

睡眠診療科は元々ない…僕は先週どの科も受診していない。
ふう。
なにがおきているんだ?
奇妙なことがおきていることは確かだ。
それなのに僕は…睡眠診療科も僕を担当した医者も存在しないと聞いたとき、こう思った。
「やっぱりね」
やれやれ、どうやら僕は奇妙な物語に足を踏み入れたらしい。と、気づいたからだ。
奇妙な物語なら不思議なことが連続しておきるのだろう・・
そして今後もそれはおきるのだろう。
そのとき僕はまた少し慌てて溜め息まじりに、こう思うのだろう。

「やっぱりね」


* **


その日の夜11時、30分の睡眠が始まった。もちろん突然に。
カウチで横になり本を読んでいたときだったから突然意識がなくなっても問題はない。
当然のこと、突然意識が戻っても問題はない……はずだったのだが。
意識が戻ると、カウチと対面の壁に沿って置いたソファに男が座りウイスキーを飲んでい
た。

「23:00を過ぎたらウイスキーが美味しくなるのはなぜなんだ?」

男は大きな声で僕に話しかけてきた。それは質問にも聞こえるし、独り言にも聞こえた。
上下が白い麻のスーツを身につけた、でっぷりと肥った50代後半の男だった。
スーツ・ジャケットの下に黄色いYシャツを着ていたがネクタイはしていなかった。
髪は無かった。毛根さへ残らないスキンヘッドは、額と頭がシームレスに連続していた。
大きい目と太い鼻に薄い唇がついた顔は丸かった。それは生半可な丸さじゃない、顔の輪
郭ほぼ円形に近かった。それはほぼ破綻のない円だった。
奇妙な顔の男が、奇妙な出かたで僕の部屋に現れた。
僕はもう慌てることなく、溜め息もつかずに思った。

『やっぱりね』

男はウイスキーと大きな球形の氷が入ったグラスをテーブルに置き、キッチンにある冷蔵
庫からメーカーズマークの瓶を取り出した。

「オマエが眠ってる間にバーボンを冷蔵庫の中へ入れておいた。
 いいか。バーボンソーダは氷で冷やすんじゃない、冷やしたバーボンで作るんだ。
 氷で冷えるのを待っていたらソーダの炭酸が飛んで消えちまう」

「・・・・・」

「それからウイスキーグラスはだめだ。飲み口が広くて炭酸が逃げてしまう。
 飲み口の小さいビールタンブラーにするんだ。
 そして氷は最後に入れる。氷の上にソーダを注いだら炭酸が反射して飛んでいってしま
 う。ほら。オレが作ったバーボンソーダを飲んでみろ」

「・・・・・」

僕は男が作ったバーボンソーダを飲んでみた。
バーボンとソーダの比率が寝起きの僕の身体に相応しい割合だった。
男が言うようにソーダの炭酸はフレッシュネスを損なわれていなかった。

「今まで飲んだバーボンソーダの中では、これがベストだ」

「当然だ」

「それじゃ、こういうことか。あなたはバーボンソーダ作りのプロフェッショナルで、
 僕に美味しいバーボンソーダを飲ませるために僕が眠ってる間に家に入ってきたと」

「まさか。本気でいってるのか?」

「まさか!」

「だよな」

「あなたは何者なんだ?」

「オレか…オレは月だ」

ふう。『やっぱりね』と言うのはさすがに今回はためらわれた。

「確かに顔や体型は…満ちている。満月そのものだ。
 それに…今夜は十五夜だ。
 それじゃあ。あなたは日増しに欠けていくのか…損なわれていくのか?」

「バカ言え。いいか。月の満ち欠けは太陽との位置関係でそう見えるだけだ。
 まあオレが月だって信じなくてもいいさ。
 なあ。相談相手になってやるよ。1人で考えても解決がつかないときは年寄りに相談し
 てみるもんだ」

「45億年分の経験と智恵を持つ年寄りに相談しろとでも……」

「ほう。オレが月だって理解したか」

「僕は理解する前に、大抵のことは受け入れるんだ」

「やっぱりね…と?」

「・・・・・」

「なあ。どうだ。一緒にメキシコへ行ってみようぜ」

「メキシコ…?」

「ティファナのシーザーズ・プレイスへ行ってみようぜ」

「あのシーザーズ・プレイスがまだ営業していることは本で読んだ。
 だけどシーザー・カルディーニがシーザーサラダを作ったのは1924年だ。
 今行っても彼に会えるわけがない」

「シーザー・カルディーニに会おうぜってオレが言ったか?」

「それじゃ何しにティファナへ行くんだ?」

「決まってる。美味しいシーザーサラダを食べるためさ」

「・・・・・」

「困ったときはくよくよ悩まないで美味いものを食べるにかぎる」

「あなたは相談相手になるために来たと言ったじゃないか?」

「いいか。困ったときは美味いもの食べて、満腹になって…ぐっすり眠ればいい。
 朝になったら悩みなんか…」

「眠れない」

「・・・・・」

「僕は眠れないんだ」

「ゲラゲラ。そうだった。まあいいじゃないか。
 シーザーズ・プレイスのシーザーサラダを食べにティファナへ行こうぜ」

「・・・・・」

「いいか。シーザーズ・プレイスじゃ料理人が客のテーブルの前でシーザーサラダを作っ
 てくれるんだ。
 大きな木製ボウルへ、にんにく、オリーブオイル、塩、胡椒、レモン汁、卵黄、
 ワインビネガー、ウスターソースを入れてソースを作る。
 そこへロメインレタスを入れてソースとからめる。
 皿に盛りつけたら、かりかりのガーリッククルトンをのせ、チーズカッターから摺り
 おろしたパルメザンチーズをふりかける。最後に半熟玉子をのせる。
 大きなロメインレタスをナイフとフォークで切って口に運ぶ。
 よく冷えたカリフォルニア・シャブリを飲む…どうだ?」

「・・・・・」

「うん…食べたくないのか?
 分かった。オマエはバーボンソーダを飲んでいいぞ」

「いや僕はよく冷えたビールを飲むとしよう」

「じゃあ決まりだな」

「これから…あなたをなんて呼べばいい?名前をおしえてくれ」

「だからオレは月だ。そうだな…月と呼ぶのに抵抗があるならMと呼んでくれ。
 オレはオマエをこれからもオマエと呼ぶことにする」

Mはニヤリと笑うと言った。

「How does it feel ?」(どんな気分だ?)

「極度の不眠症と突然やってくる睡眠発作。
 夢にでてきたシーザー・カルディーニ。
 シーザーサラダを思いなさいと言って消えた睡眠専門医。
 僕の家に登場した月男。
 やれやれ。
 それで僕は今どんな気分かなだって?
 まあ奇妙な物語のようではあるけれど…それでも、
 ひとりぼっちの帰る家もなくした誰にも知られることのない…
 転がる石になった気分じゃないな」

「ゲラゲラ。やっぱりオマエはボブ・ディランが好きだと思ってたんだ。
 ひねくれ者だろオマエ、なあ」

「“ライク・ア・ローリング・ストーン”は僕が15才のときに撃たれた曲だ」

僕はMにつられて低い声で笑った。
Mが言った。

「1965年、ボブ・ディランは夢と現実を交換したんだ」

「夢と現実を…交換した…?」

Mは言った。1週間以内にメキシコへ飛べ。オマエはティファナのホテルで待っていろ、
オレがオマエの部屋へ行く。どのホテルでもオレにはすぐに分かる。オレは月だからな。
もちろんメキシコだろうがどこだろうがオレは道に迷うことはない。

「じゃあ今日はこれで帰る」
と言ったMの姿はおぼろに滲み部屋の景色に溶けて…消えた。

消えたMが数秒後にまた現れて言った。

「オマエさあ。キリンの睡眠時間を知ってるか?
 たったの30分なんだぜ」

そう言い残してMは消えた。

キリンの睡眠時間は30分…。
『やっぱりね』

 
* **


見知らぬ町を歩いてる時に突然意識を失うことは避けたい。それでもホテルの部屋にこも
ってばかりいるのはいくらなんでもごめんだ。
シャワーを浴び、白いTシャツとグレーのカーゴパンツに着替え通りに出た。パンツの
ポケットに入れた紙にはホテルの電話番号とスペイン語でこう書かれていた。

『慌てないで。僕は眠っているだけなんだ。ほら。息をしている、脈も強く拍動してい 
 る。なにより血色が良い。30分すると目覚めるから心配はいらない。
 愛を込めて』

ティファナ…時間を1/2世紀ほど遡上し時が停止したような建物の街並みの、アメリカと
の国境にあるメキシコの町。青い空に白い雲が羊の放牧のように群れていた。
通りを歩く外国人も多く特にアメリカ人の多さが目立った。調べてみると、アメリカ側の
国境の町サンイシドロまではサンディエゴから路面電車が出ていた。サンイシドロから国
境ゲートを通過しメキシコのティファナへ入国するには入国審査がない。メキシコはドル
をいつでもウエルカムということだ。ティファナからサンイシドロへ行くときは審査があ
る。アメリカはペソと一緒に持ち込まれる可能性のある物がウエルカムじゃないというこ
とだ。
ティファナの街中には薬局や歯医者が多い。通りすがりのアメリカ人の男は言った。アメ
リカで薬を買ったり治療を受けるより安いのさ。男はニヤリと笑った。多くのアメリカ人
がティファナを歩いてるのも頷けた。

ホテルへ戻り、部屋のベッドに座りテレビでサッカーの試合ををみていた。ふと気づくと
2つのチームがサイド・チェンジをしていた。30分眠ったらしい。物音に振り向くとM
が立っていた。時計をみると午後5時30分。月の登場には相応しい時間だ。赤基調の派
手な半袖開襟シャツと青いデニムのパンツ、黒いサングラスをかけた月は笑って立ってい
た。

レストラン「シーザーズ・プレイス」。
横に長く造られた建物の内部は白黒格子柄の床が長く伸び、白いクロスでおおわれた茶色
の木製テーブルが1列に並んでいた。とても長く。テーブルの列と平行にカウンター席が
あった。とても長いカウンターだ。古いレストランにしては照明が明るかった。サラダを
食べるには好感がもてる照明だ。
Mは予約をとっていた。
「月はそつがないんだ」と言ってククッと笑った。
店の人間に案内され僕とMはテーブル席にについた。
白Yシャツに黒のチョッキとネクタイ、腰から下は白エプロンの男がカートを押して僕
たちのテーブルに現れた。簡単な挨拶をすると男は大きな木製ボウルでシーザーサラダを
作った。そしてサラダを皿に盛りつけると男は去っていった。
僕は大きなロメインレタスをフォクークとナイフを使って切り分け口へ運んだ。
そうか、そういうことか。おろしたにんにくをサラダソースにつかっているのに、男は皿
に盛りつける前におろしにんにくを皿に塗りこんでいた。にんにくの香りが鼻腔を刺激し
軽く興奮した。

「・・・・・」

もう1度ロメインレタスを口へ運び、冷えた白ワインを飲んだ。良い出来のカリフォルニ
アシャブリだった。

「・・・・・」

Mもサラダと白ワインを交互に口へ運んでいた。時おり目をつぶりながら。

「・・・・・」

食べ終えるまで僕とMは一言も言葉を発しなかった。勤勉な機織りのような食事だった。

「・・・・・」

「・・・・・」

僕とMはほぼ同時に食べ終えるとゲラゲラ笑った。
美味しいサラダとワインのおかげで僕たちの脳は無防備に服を脱ぎすて開放されたらしい。
笑いは数分たってもおさまらなかった。
笑いが止むとMが聞いてきた。

「おい。この店のサラダを食べてみてどうだった?」

「素晴らしい。僕のサラダ歴の中ではベスト・オブ・ベストだね」

「そうじゃない。オマエの夢にでてきたシーザー・カルディーニの店でだ…ヤツが考案し 
 たサラダを食べたんだぞ」

「もちろんオリジナルにも興味はあるけど今食べたサラダは素晴らしかった」

「そうじゃない。今オマエに起きてる奇妙なことの謎に迫る何かを思い出さないのか?」

「ない。何も思い出さないし、何も思い浮かばない」


それからピノ・ノワールの瓶を開けた。チーズと干し葡萄をかじりながらルビー色のワイ
ンを僕たちは飲んだ。

「オマエはどうして奇妙な出来事に出会っても慌てないんだ?」

「じゅうぶん慌てているけど」

「オレにはそうみえない。
 オレは毎晩オマエを空から観察していた。
 本と音楽とバーボンソーダ。それだけだ。
 慌てない、嘆きも怒りもない。
 せいぜい溜め息くらいのもんだ。
 次の夜も、また次の夜も…本と音楽とバーボンソーダ。それだけだ」

Mは両切りの煙草に火をつけ一息吸うと大きく煙を吐き出した。

「奇妙な出来事もオマエはそのまま受け止めて、あわてない。
 やっぱりね…なんて思ってる。そうだろ?」

「僕の祖父はタイのゴム農園で働いていたことがる」

「・・うん?」

「ゴムの反発係数は小さい、石や木や金属と比べるとね」

「何を言ってる?」

「反発係数が限りなく0(ゼロ)に近い非弾性ゴムがある」

「・・・・・」

「衝突したモノを跳ね返さない」

「・・・・・」

「受け入れるんだ」

「じゃあ何か…オマエの心はゴムなみの反発係数で奇妙なことも受け入れるのか?」

「まさか。僕の心はゴムじゃない。
 それでも僕は子供のころからあまりにもムチャなことに出会うと…」

「出会うと・・・」

「ああ運命かもしれないと思うところがあった」

「ふん。そんなことだと思ったぜ」


次に太陽がぎっしり詰まったような100%シラーの瓶を開けた。濃赤色のワインの酔いは
さざ波のように寄せてきたけど眠くはならない。月はもちろん眠らない。

「僕の眠りを何者かが持ち去った…あるいは僕の眠りは自律的に立ち去った」

「自律的に立ち去った眠り…不思議なことだ」

「でも僕にとって最も不思議なことは…月とワインを飲みながら話していることだ」

「夢かもしれない」

「まさか」

「だよな。眠れないんじゃ夢はみれない」

「・・・・・」

「自律的に立ち去った眠りか…オマエに失望して立ち去った友人のように」

「・・・・・」

「もしくはオマエが退屈な友人から立ち去ったときのように」

「僕が眠りは自律的に立ち去った…退屈だから、もしくは失望したから?」


***


昨夜Mはこう言い残して消えた。

「マヤの遺跡を訪ねてみろ」

「どうして?」

「旅に必要なものはなんだ?」

「・・・・・」

「ロマンだ!」

Mは赤ワインのタンニンが着色した歯を剥き出してゲラゲラ笑っていた。


朝になると僕は荷物をまとめてティファナのホテルを出た。バスで国境ゲートへ向かい、
入国審査をすませアメリカ側の国境の町サンイシドロへ入った。そこから路面電車に乗り
サンディエゴの街に入るとタクシーをつかまえサンディエゴ国際空港へ向かった。ティフ
ァナからサンディエゴの空港まではわずか24kmだった。
目的地はメキシコ南部ユカタン州のウシュマル遺跡。
サンディエゴ国際空港で運良くエアロメキシコのキャンセルチケットを手に入れ、ユカタ
ン州メリダへ飛んだ。さらに運が良かったのは飛行機に乗り込むまで眠りがやってこなか
ったことだ。しかし、5時間50分の飛行時間の間に消化したかった眠りはメリダ国際空
港に着くまで残念ながらやってこなかった。ここからウシュマルまではレンタカーだ。空
港内で眠りをやり過ごすほかなかった。
僕は空港ロビーのベンチに座り眠りをじっと待った。やがて眠りは訪れ30分後に去って
いった。
オーケイ、23時間30分の1日の始まりだ。
レンタカーに乗り込み国道261号線に入った。ここからウシュマルまで110km、もう目
の前だ。1時間30分後にウシュマルに入り最初に目についたホテルに飛び込みでチェッ
クインした。
ユカタン州ウシュマル、人口2万5千人の町。
ユカタンはマヤ語で「お前の言っていることは解らない」らしい。
やれやれ、わからないことだらけだ。
ウシュマルはマヤ語で「3度にわたり建てられた町」。
時代に押しやられたこの町に4度目はなかった。
荷物を部屋に放り込み、タクシーで「魔法使いのピラミッド」へ向かった。
腕時計の液晶表示は15:30だった。


魔法使いのピラミッド。
魔法使いの老婆が温めた卵から生まれた小人が1夜のうちに創ったという伝説があった。
楕円形の土台に建てられた巨大なピラミッドだ。頂点には神殿を戴いていた。
高さ36m、およそ12階建のマンションと同じ高さだ。
ピラミッド土台の楕円形の幅は高さと同じ36m、長さは73mもあった。
果てなくどこまでも広がる青い空の下、白い石組のピラミッドが緑の草地の上に建ってい
た。
ピラミッド近づいてみると、それは精巧に切り取られた石を組み合わせて造られていた。
斜面全体には凹凸が殆どないように整えられ、楕円形の4つ角は破綻のない見事な曲面を
描いていた。
思わず息をのむそれは、約1200年前のマヤの人々が建てた神話だ。
ピラミッドの斜面しつらえられた118段の階段は、遠くから見るのと違い実際に昇り始
めると気が遠くなるような急傾斜で壁をよじ登るような勾配だった。
夕刻に近づいても太陽は容赦なく照りつけ、僕は汗を拭うのも息を整えるのも面倒くさく
なりただただ黙々と昇った。この階段を昇り始めたことを心底後悔したころに頂上にある
神殿の断片が見えてきた。

神殿にたどり着いたときには陽が傾き始めていた。
そこには予想通りMが立っていた。
Mは瓶ビールを2本持っていて、蓋を開けて待っていた。それはよく冷えたコロナビー
ルで瓶の中にはカットしたライムまで入っていた。
ふう。月のやることは…そつがない。
軽いテイストの冷えたビールを飲みながら180度に広がる地平線を眺めているとMが話
しかけてきた。

「知ってるか…マヤは“時間・周期”という意味だ。つまり彼らは自らを、“時の民”と呼ん
 でいたんだ」

「・・・・・」

「金属を持たない石の文明、農耕は単純な焼き畑だ。それなのに高等数学を使い天文学を
 操っていたとされる。なんといっても0(ゼロ)の概念を発明したんだからな」

「・・・・・」

「いいか。彼らは20進法を操り1年が350日の暦を作り、9世紀には月や火星や金星の
 軌道も計算していたんだぞ」

Mはポケットからメモ帳を取り出すと3つの記号を書いた。
睫毛のない仏像の目のようなもの、丸い点、横棒。

「これは記号じゃない数字だ。
 マヤの20進法は、0と1と5で表現する。丸い点が1だ。横棒は5だ。
 0から19の20進法で…19はこう表す」

Mは手帳に丸い点を横並びに4つ書き、4つの丸点の下に横棒を3本書いた。

「これが19だ」

「この…目のような記号は?」

「これは0(ゼロ)だ。それにな、これは目じゃない。月だ。
 数学の起点のゼロは…月なんだ」

そう言ってMはニヤリと笑った。

「起点は…月?
 時の民が操った天文学、それを支えた数学の起点が…月だって?」

Mはそれには答えずゲラゲラ笑った。

夕空には星々の明りがまたたいていた。Mはこうきりだした。

「どうしてマヤの民は星々の運行を観察し暦をつくったんだ?」

「・・・・・」

「どうして自らを“時の民”と呼んだんだ?」

「・・・・・」

「この世界で不変なものは時間だと知っていたんじゃないか。
 一定の速度で移動する普遍なものが時間だと気づいていたんじゃないか」

「月の満ち欠け…」

「そうだ。月の満ち欠けはサイン(象徴)じゃない、時間の移動だと気づいたんだ」

「時間の起点は月…月は0(ゼロ)」

「うん。オレもそう思う。月のオレだってそう思う」

Mはゲラゲラと長く笑った。


「なあ。単純に考えないか。
 オマエの内部で意識の“時間”がちょっと移動しただけなんだ。眠りから覚醒へ。
 オマエの暦が書き換わったんだ」

「・・・・・」

「オマエは眠りが立ち去ったと思ってるけどな…こうは考えられないか。
 覚醒した意識の時間がやって来たんだ」

「・・・・・?」

「眠りと覚醒の2進法だ」

「眠りが0で、覚醒が1の2進法。
 0と1で書かれた脳のプログラム・コードの中の1が増加した。
 そして0は…月」

「そりゃあ、人間が眠るときは月の出番だからな。ゲラゲラ」

「・・・・・」

「眠りは無意識の意識だ。
 無意識より覚醒した意識のほうが面白いに決まっている。
 なあ。眠りを取り戻すことなんか忘れてしまえ!」


***


成田から自宅に戻りソファに座ると同時に眠りがやってきた。
僕は夢をみた。確信はないがそれはおそらく夢だ。
不眠症になってから初めてみる夢だ。

僕は森を歩いていた。
僕が生まれた町の神社に連なる大きな森だ。
僕が子供の頃に、よく1人で遊んでいた森だ。
でもこれは夢だ。
現実と違い、それは大きく深い森でどこまで歩いても森は終わらなかった。どこまでも。
木洩れ陽の指す方角が東だとみきわめ、一定方向へ向かって歩き続けたが森は尽きなかっ
た。
鳥のさえずりが聞こえる。虫の声も聞こえる。緑に染まった空気が漂っている。
樹木の翳から栗鼠が出てきて立ち止まり僕をじっと見ていた。
歩き疲れた僕は下生えの草の上に寝転んだ。
頬をチクチク刺激する草の感触と匂いが心地よかった。

どれくらい眠っただろう。
目覚めると樹木の間から5年前に亡くなった父親が出てきた。
乱暴で口数が多く(しかも口うるさい)、そのくせ息子思いの父親だった。
僕が油断するとしっぺ返しにあう、取り扱いに注意を要する面倒な父親だった。
そして僕は父親が好きだった。

「おい。こんな所で眠ってるんじゃねえ、ほら、起きろ」

「・・・・・」

「久しぶりに会ったからってな、オマエと話すことなんかオレにはねえ。
 ほら、とっとと行け」

そこにMが現れ父親の隣に立った。

「おい月!オマエは余計なことをコイツに言うんじゃねえぞ。
 月はなんでも知ってるそうじゃねえか。いいか、コイツに入れ知恵するな!
 コイツは自分で考えんなきゃいけないんだ」

Mはゲラゲラ笑い出したが父親は構わず話し続けた。

「おい月!ありがとな。コイツが世話になった。
 コイツは森に来なきゃいけなかったんだ。
 コイツは森を歩かなきゃいけない。そうしないと何も始まらない」

Mはニヤニヤ笑うだけで何も話さなかった。

「おい眠ってなんかいないで考えろ。
 眠ってなんかいないで森を前に進め。
 森をただ歩くんじゃない。森をイメージしろ。
 目を閉じるな。足を動かせ。森を歩くんだ。考えるんだ。
 イメージしろ」

「・・・・・」

「そうすりゃ、オマエはなにかに出会い、なにかを手にする」

「・・・・・」

「おい月!コイツは1人で行かなきゃいけない。オマエもオレも一緒には行けない。
 コイツは1人で歩かなきゃいけないんだ。
 おい月!オマエはここに残ってオレの話し相手になれ。ギャハハ」

僕はそれからしばらく森の中を歩いた。森をイメージして森を歩いた。
1時間くらい経つと父親は僕の頭の中へ直接話しかけてきた。
父親は森の住人となった今でも話好きなのは変わっていなかった。

『いいか。人間に生まれて面白いことはなんだ?前に向かって歩くことだ。
 人間やってて楽しいことはなんだ?考えることだ。
 眠れねえなんて上等じゃあねえか。
 歩く時間と考える時間が増えたってことだ。
 森を前へ進むんだ。そして…考えるんだ
 そうすりゃ、オマエはなにかに出会い、なにかを手にする』


遠くに見える木洩れ日の光量が急に大きくなった。

 
***


翌日僕は本屋へ行き、森に関する本を買ってきた。
森林は、草原など他の植物群落よりはるかに多い動物が住む。地上生物のあらゆる型のも
のが森林には生息する…。と、書いてあった。

森とは…あらゆる形態の生物を保持する世界。

数学では…閉路を持たない無向グラフを「森」という。
なんのことだ?本では鉄道路線図のイラストを使って解説されていたが僕には理解できな
かった。
僕には…その路線図のイラストが枝々を伸ばした木に見える、ということだった。

森なるものは閉路をもたない無向なもの…そして、あらゆる形態の生物を保持する。

よくは分からないが、それはもう構わないと思った。
僕は森へ行こうと思った。森なるものへ向かおうと思った。
あらゆる形態の生物が生息する世界をイメージした。
閉じないフィールドをイメージした。


***


この数週間のうちに僕が巡り逢った奇妙なことを思った。

夢に現れたキリンとシーザーサラダを作った男。
自律的に立ち去った僕の眠り。
シーザーサラダを語る睡眠専門医。
本の写真で見たシーザーサラダを作った男。
消えた睡眠診療科と睡眠専門医。
部屋に現れた、月だと名乗る男。
そして。マヤ文明が編み出した数学の起点の0(ゼロ)は月。

「始まりは月。
 全ては君の手配したことなんだね」


目の前のソファの上にMが現れ座っていた。

「・・そう。全てはオレの仕業だ。月のやることには…そつがない」

「やっぱりね」

「分かってたんだろ?」

「うん。
 たくさんの不思議なことも大抵の場合は1本の紐でつながるのが世界だ」

「そしてオマエはこれから森を歩く」

「うん。そうすると思う」

「それは良かった」

「どうしてMは僕を選んだのかな?」

「選んじゃいない。」

「Mはいったいどこへ僕を導くつもりだ?」

「オレはオマエを選んじゃいないし、どこへも導かない。
 これはオマエが望んだことだ」

「僕が望んだこと…?」

「気づいていなかっただけだ。
 オレがやったことは…気づきをオマエに投げかけただけだ」

「気づき・・・」

「そう。気づきだ。
 オマエはあるフレーズのある楽器の音を望んでいた。
 オレはピアノの録音ファイルの音圧を少し上げた」

「僕は多くの楽器が奏でる演奏の音からピアノの音に気づく。
 そしてそれを僕は望んでいた」

「そうだ」

「人は誰だって望んだようにしか生きられない」

「望むままにに生きられる人は少ないと思う」

「簡単なことだけど実行する人間は少ない」

「・・・・・」

「誰にだって望む夢がある」

「夢に蓋をする現実もたっぷりある」

「簡単なことだ。
 夢と現実を交換するんだ」

「夢と現実を交換する・・・?」

「夢をみて生きる。現実をみるのは眠ってる時だけ。
 覚醒した意識でリアルに夢を生きるんだ」

「そして僕は森を歩く」

「そうだ」

「木々と樹液の匂い、下草と苔の香り、森に住む生物たちの音、木洩れ日がつくる日溜ま
 りの温かさ…その中を歩く」

「森はオマエにとってときにイノセントな存在じゃないかもしれない。
 むしろ狡猾な黒い森となってオマエを搦め取ろうとするかもしれない」

「もしくは森が内包する混沌に僕は対応できずに煩悶するかもしれない」

「混沌に出会ったら少し調整すればいい。
 ピアノ調律師が弦の張りを調整して音の混沌から光りをみつけるように」

「そんなこと…できっこない」

「はっはっは…」

「それでも僕は森を歩く」

「そうだ。立ちどまっているわけにはいかない。
 オマエは森を歩き…なにかに出会い、なにかを手にするんだ」

「僕は森でなにかに出会い、なにかを手にする…それが僕のレシピだ」

「もしくは…なににも出会わず、なにも手にしないかもしれない」

「森の美女には出会えず、森の賢者の智恵を手にすることができなくても…
 月に出会い、月の智恵を手にするかもしれない」

「ゲラゲラ。悪くない…そいつは悪くない出会いだ」

「オーケイ。僕は森を歩くことにする」

「あるいは森なるものの中を。
 オマエにとっての森性なるものの中へわけいることになる」
「僕にとっての森性なるもの……」


* **


3日間かけて森なるものをイメージしてみた。
それでもイメージは玄関ドアをノックしないし、バスルームの窓から入ってくることもな
かった。
それでも歩くことにした。歩いていれば、そのうち僕が分け入る森に出会うことになって
いるのだろう。きっと。
少なくとも立ち止まっていては森に出会うことはできない。

キッチンの物音へ目をやると、そこにMが立っていた。

「何をしている?」

「バーボンソーダを作ってる」

「僕にも作ってくれ」

「分かった。
 それで…どこに行くことにした?」

「明日、ハノイへ向かうことにした」

「どうしてベトナムなんだ…」

「どうしてだろ…?そんな気分なんだ…としか言えない」

「ゲラゲラ。うん。そいつは悪くない。気分にまかせるのは悪くない」

「それに…」

「それに…?」

「ベトナム料理は美味しいし、ビールも僕の好みだ」

「うんうん。オマエが美味い料理とビールに惹かれる土地なら…
 そこにはオマエが行かなきゃならない森があるんだろう」

Mはバーボンソーダを2つ作って持って来た。

「1つ質問に答えてくれ。どうして僕の眠りは予期せず突然やってくるんだ?
 森を探す旅に向かうのにこの眠りはやっかいだ」

Mはゲラゲラ笑いながら答えた。

「そいつは脳のオーバーフローだ。それで脳が突然シャット・ダウンする」

「コンピュータの強制終了みたいに?」

「そうだ」

「どうして?」

「人間の脳の休息には30分は短すぎたからだ。
 月だってときにはミスをおかす。ゲラゲラ。
 心配するな。90分に調整しておいた。ダ・ヴィンチなみの充分な睡眠だ。
 明日からは不意打ちの眠りが襲ってくることはない」


2人ともバーボンソーダを飲み終えるとMはこうきりだした。

「オマエはもう気づいていると思うが…今日でお別れだ」

「うん。そうだと思った」

「オマエが1人で歩き続ける気になったならオレの出番はない」

「うん。君が歩く気にしてくれた。ありがとう。
 月のやることは、そつがない」

「ゲラゲラ。そうだ。月のやることは、ぬかりがない!」

笑いながらMの姿はおぼろに滲み部屋の景色に溶けて…消えた。


部屋の壁に嵌め込んだ飾り棚の上のラジオから突然音が流れてきた。
ラジオ局をチューニングする音が数秒鳴った。
突然…イントロなしのジョン・レノンのシャウトが大音量で始まった。
やっぱりね。
ふふっ。月のやることには…そつがない。


ミスター・ムーンライト
あの夏の夜に君は僕の目の前にあらわれた
君のやさしい光りが僕を夢心地にしてくれた
君は世界中から探して彼女を僕へ届けてくれた
君は空の上から僕と彼女に愛を届けてくれた
そして今、彼女はぼくのもの
ねえミスター、君は素敵な月明かりだね
ねえミスター、僕も彼女も君が大好きなんだ


The Beatles “ Mr. Moonlight “




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